残響する声と変化と人生
・今まで経験してきたことを総括すると、
・「直接、短期に役に立つ」以外の思想にふける。
・結論を新規に「心理のものさし」に刻み込む。
・その論が覆るようなハプニングが起こった際に再度、パターンを変えて思考にふける。
私の人生ってこんな感じ。
「心理のものさし」というのが私の行動ロジックそのもの。最後の「パターンを変えて」というのは、結論を出した当時から新たに加えられた経験データを洗い出して検討してみて、「思想」っていうイコール「計算環境」に影響が出そうなものを考慮しつつ、再計算することを指します。
人格をプログラムに例えると、以上のような説明になるのですが、つまり人生というのは私という個人の人格プログラムのデバッグに当たると言えます。結局、死ぬまでコレを繰り返していくわけです。よく「人生」ってナニ? みたいな、さも「アタシ哲学してるのよ」というような主張を耳にするのですが、私のその人生ってナニ?という問に対する答えはおおむねこんなところです。っていうかこれは本来の定義での哲学ではありませんし。
余談として。
なぜ人格の修正を繰り返すのかですが、周囲の環境、つまり誤解を避けずに表現すると「世論」とですね、同調を図るためにそういうことをするんですけど、じゃあどうしてそうする必要があるんでしょうか。これは単純に、「ストレスを避けるため」です。
よく「あのヒトは個性的…」みたいな客観論も聞きますけど、人間が持つ「個性」っていうのは「一般的でない」「周囲とは違う(ギャップ)」という意味であり、良かれ悪かれどうしたって目を引くから、そういった感想が出てくるわけです。例えば、人ごみの中で一人だけ全裸の男を見かけたら、周囲と見比べれば明らかに浮いているわけで、個性と言えます。これが松葉杖をついているヒトだったりすると個性とは言えないのですけど、それは「松葉杖」というアイテムの持つイメージの問題もあるし、その用途の意義もあります。ファッションや髪型などの外見で個性を作る方法が「一般的」です。
当然ですが外見で無い部分、人格にも個性は宿ります。
例えば「思想」が最も顕著です。宗教も「思想の個性」ですし、もっと身近なところでは「真っ赤なリンゴ」を目にして「どう思うか」というのが個性です。そして集団で行動する生物としての人間は、こうした「人格」と呼ばれる部分で周囲とギャップを感じると、それを悪いものとして受け取り、ストレスとして感じてしまう習性があるのでしょう。 (このあたりはまだ未開拓部分になるので断言は避けます。
そこで、周囲とのギャップを埋めるべく、人格の習性を試みるのです。
ちなみに「個性的」と呼ばれるヒトが何故「個性的」なのか。それはギャップを感じ取る感覚が鈍いか、もしくはそれをストレスとして認識していないかのどちらかなので、「個性」が周囲から飛び出したままでも何の疑問も不満も問題も感じ得ないため、周囲との調整をしないのです。きっと。
で、以上の説明をそのまま適応すると、私はストレスを溜めないために人格を修正しているって事になりますが、そうじゃないです。これは、私以外の人たちが私と同様に人格の修正を行い続けているという仮定を元にした、一般的な説明というのか、えーなんっていうのかな、ようするにメタ解説なんですけど。
私個人に限定して説明すると、あくまで私自身が正しいと思う、納得の出来る生き方をしたいから、なんです。私は自分で納得できないことや必要を感じないことはやりたがらないっていうか、絶対手を抜くタイプの人間なので、じゃあ自分で納得できるルールってのを最初に定義しておこうじゃないのという、武装準備というか心構えみたいな。こうしておくことで、納得できかねる事態に遭遇してもその場で主張して「やらない」「相手の主張に納得する」という選択が出来るから。っていう希望観測がある。「選択しない(できない)自由」こそ不幸の極みですよ。
まあ、それにも増して、ただ「思想する」のが楽しいってのが要因かな。
で、結果はちゃんと行動にも反映させましょ的な。反映させるもクソも無い無意味な境界線も多いけど(随分以前にここにも書いた「オタクとは」とか実用できるような現実は起こりえないだろーという)。
私が思想にふけるのは、単純に楽しいからってのもあるし、周囲が「何故だろう」と口を揃えている事象に興味を覚えるからです。自分自身で疑問に思ったことを思想することが多いですが、近頃は後者のようなパターンも増えてきてます。周囲と触れ合う機会が増えれば自然と、そうなるものかもしれません。
最近になって否定要素が出てきたのでここで断言しておきますけど、「周りが解けない問題を簡単に解いちゃうアテクシ」に酔っていたりはしないです。自分のナルシスト癖も自覚していますので、もしかしてそういう部分もあるかも、と今より少し以前は自己嫌悪していたのですが、別にその解答一例を誰かに、ここぞとばかりに主張したりもしてないし。ここに日記のような形で記録して公開はしていますが、「戯言日付」はそれが目的ではなく、現在のスタンスは「私という自分の嗜好の記録」。
あー、それでも、少しはあるのかも。どうしてもそこは否定しきれないなあ。
小説のような形を取って私という人間の思想を、誤解の無いように表現することもありますし、まあ流行に乗って例を出すなら「どうしていじめをしてはいけないの?」というような、人間として常識として分かっていなければいけないことは、実生活でも主張していくつもり。だけどあくまでひかえめに。ガンガンいこうぜひかえめに。