« 2006年10月 | メイン | 2006年12月 »

2006年11月28日

さんたるる。ゲー作から学。

 だいたい二つのことを書こうと思ったところでタイトルが長くなりそうになったため、ナントカ省略してみた。けど、余計わかりにくくなったような気がするが、これはどうなんだろう。見直す機会があるかどうかが問題か。

・さんたるる。
 どっかで聞いたことがある作曲家。確かおおむね良好の定評がある。

 ずっとフォルダにブッ込んだままだった68kの「ガレッガ」を聞いてみたのだった(終了。
 このゲームが作られたのは、軽く見積もっても90年代よりも前であるはず。にも関わらず、このサウンドは飛び抜けて近代的に感じられる。雰囲気でジャンル分けすると「ボーダーライン」「センコウノロンド」なんかの「ハウス&トランスポップ」というのかな。リズムはハウスそのもので、ハウスが流行ったのがまさにその時代だったことを考えてみると非常にピンポイント。しかし孤高感の漂うハウスのそれでなくて、馴染みやすくノリの良いポップス、聴き手を引き込むトランスの要素も存在する。知識が浅はかなので、ここら辺をジャンル分けするのは苦手だ。
 あー、兵器工場なんかでは「R-Type」な重厚感が際立ってるかな。もちろん重いだけじゃなくてリズミカルな表現も使われてる。この旋律を「R-Type」と表現するのは私の個人的な感傷なのでもうどうにでもなれっ。
 好みは 渓谷上空 、 臨海地帯 、 雲海 、 戦艦追跡 あたり。
 スピード感がたまりません。


・ゲーム作りから学んだこと。
 そういえば私の文章は、とかく「自分語り」に専念している気がする。
 今回もその通りなのですが、私がゲームを作るときはまず、

 ・レポート用紙に概要を書く
 ・概要を細分化し、それぞれの処理について考える(ほぼレポート化)
 ・現実化にあたってツールの処理限界なども考慮し、さらに書き直す
 ・実際にプログラムを組み、正常性を確認する
 ・ゲームとしての体裁を作り、ストーリー面を作る

 という作業を行うわけですが、この行動は、そのまま大量型文章(例えば小説wとか論文調とか)にも当てはめることが出来るんじゃないかと気づいたのだった。

 「小説」の場合について再考してみた。
 ・レポート用紙に概要(最も書きたい部分)を書き出す
 ・細分化し、それぞれの状況について考え、時系列あるいは状況(人数や特別な要素)についてリスト化。
 ・あらすじを考えつつ「全体の流れ」や「不整合性」などチェックし、再考する。
 ・実際に草稿を書き、正常性を確認する。
 ・校正、最終チェック。

 ゲームを作るときは当たり前にやっていたのに、今までこれだけのことをした文章というものを書いたことが無い。それが非常に不思議で仕方が無いのですけど、それはおそらく私の文章というものに対する考え方というか持っている感情というかそういうものが関係しているのに違いないという確信があります。
 まず文章というものは「数学」でありえない。という偏見を持っていました。なので、こういう計算された建築的なアプローチは邪道だと勝手に思い込んでいた節があります。っていうか、今の今までそう信じてましたね。タブン。
 お前、物語というものを考えてみれば、すべてが計算されたものであるというのはもう否定し難い事実ですよ。「ごはんのとも」は炊き立てご飯に振り掛けるものであるってのと同じくらいに確立された現実です。それを肯定しないことには「紅魔録」の悪い部分は直せません(すべてが脳内処理の行き当たりばったりという小学生の粘度細工を思わせる製作です)。
 魂魄譚、まーだ迷いが残ってるので、それを吹っ切るためにも一度、挑戦してみる価値はあると思った。

 学んだこと、というよりも「発想」ですこれは。

2006年11月25日

残響する声と変化と人生

・今まで経験してきたことを総括すると、

 ・「直接、短期に役に立つ」以外の思想にふける。

 ・結論を新規に「心理のものさし」に刻み込む。

 ・その論が覆るようなハプニングが起こった際に再度、パターンを変えて思考にふける。

 私の人生ってこんな感じ。
 「心理のものさし」というのが私の行動ロジックそのもの。最後の「パターンを変えて」というのは、結論を出した当時から新たに加えられた経験データを洗い出して検討してみて、「思想」っていうイコール「計算環境」に影響が出そうなものを考慮しつつ、再計算することを指します。
 人格をプログラムに例えると、以上のような説明になるのですが、つまり人生というのは私という個人の人格プログラムのデバッグに当たると言えます。結局、死ぬまでコレを繰り返していくわけです。よく「人生」ってナニ? みたいな、さも「アタシ哲学してるのよ」というような主張を耳にするのですが、私のその人生ってナニ?という問に対する答えはおおむねこんなところです。っていうかこれは本来の定義での哲学ではありませんし。


 余談として。
 なぜ人格の修正を繰り返すのかですが、周囲の環境、つまり誤解を避けずに表現すると「世論」とですね、同調を図るためにそういうことをするんですけど、じゃあどうしてそうする必要があるんでしょうか。これは単純に、「ストレスを避けるため」です。
 よく「あのヒトは個性的…」みたいな客観論も聞きますけど、人間が持つ「個性」っていうのは「一般的でない」「周囲とは違う(ギャップ)」という意味であり、良かれ悪かれどうしたって目を引くから、そういった感想が出てくるわけです。例えば、人ごみの中で一人だけ全裸の男を見かけたら、周囲と見比べれば明らかに浮いているわけで、個性と言えます。これが松葉杖をついているヒトだったりすると個性とは言えないのですけど、それは「松葉杖」というアイテムの持つイメージの問題もあるし、その用途の意義もあります。ファッションや髪型などの外見で個性を作る方法が「一般的」です。
 当然ですが外見で無い部分、人格にも個性は宿ります。
 例えば「思想」が最も顕著です。宗教も「思想の個性」ですし、もっと身近なところでは「真っ赤なリンゴ」を目にして「どう思うか」というのが個性です。そして集団で行動する生物としての人間は、こうした「人格」と呼ばれる部分で周囲とギャップを感じると、それを悪いものとして受け取り、ストレスとして感じてしまう習性があるのでしょう。 (このあたりはまだ未開拓部分になるので断言は避けます。
 そこで、周囲とのギャップを埋めるべく、人格の習性を試みるのです。
 ちなみに「個性的」と呼ばれるヒトが何故「個性的」なのか。それはギャップを感じ取る感覚が鈍いか、もしくはそれをストレスとして認識していないかのどちらかなので、「個性」が周囲から飛び出したままでも何の疑問も不満も問題も感じ得ないため、周囲との調整をしないのです。きっと。

 で、以上の説明をそのまま適応すると、私はストレスを溜めないために人格を修正しているって事になりますが、そうじゃないです。これは、私以外の人たちが私と同様に人格の修正を行い続けているという仮定を元にした、一般的な説明というのか、えーなんっていうのかな、ようするにメタ解説なんですけど。
 私個人に限定して説明すると、あくまで私自身が正しいと思う、納得の出来る生き方をしたいから、なんです。私は自分で納得できないことや必要を感じないことはやりたがらないっていうか、絶対手を抜くタイプの人間なので、じゃあ自分で納得できるルールってのを最初に定義しておこうじゃないのという、武装準備というか心構えみたいな。こうしておくことで、納得できかねる事態に遭遇してもその場で主張して「やらない」「相手の主張に納得する」という選択が出来るから。っていう希望観測がある。「選択しない(できない)自由」こそ不幸の極みですよ。
 まあ、それにも増して、ただ「思想する」のが楽しいってのが要因かな。
 で、結果はちゃんと行動にも反映させましょ的な。反映させるもクソも無い無意味な境界線も多いけど(随分以前にここにも書いた「オタクとは」とか実用できるような現実は起こりえないだろーという)。


 私が思想にふけるのは、単純に楽しいからってのもあるし、周囲が「何故だろう」と口を揃えている事象に興味を覚えるからです。自分自身で疑問に思ったことを思想することが多いですが、近頃は後者のようなパターンも増えてきてます。周囲と触れ合う機会が増えれば自然と、そうなるものかもしれません。
 最近になって否定要素が出てきたのでここで断言しておきますけど、「周りが解けない問題を簡単に解いちゃうアテクシ」に酔っていたりはしないです。自分のナルシスト癖も自覚していますので、もしかしてそういう部分もあるかも、と今より少し以前は自己嫌悪していたのですが、別にその解答一例を誰かに、ここぞとばかりに主張したりもしてないし。ここに日記のような形で記録して公開はしていますが、「戯言日付」はそれが目的ではなく、現在のスタンスは「私という自分の嗜好の記録」。
 あー、それでも、少しはあるのかも。どうしてもそこは否定しきれないなあ。
 小説のような形を取って私という人間の思想を、誤解の無いように表現することもありますし、まあ流行に乗って例を出すなら「どうしていじめをしてはいけないの?」というような、人間として常識として分かっていなければいけないことは、実生活でも主張していくつもり。だけどあくまでひかえめに。ガンガンいこうぜひかえめに。

2006年11月24日

遥かなる土地への軌跡は、子供たちに魔法をかけさせます。「それは希望!」

・そろそろタイトルからお話をひねり出すのはやめませんか。

 The Passage of long ago Whiched child. Sey " It's Hope! "

 メンデルの法則を考えていた時に急に思い浮かんだ英文を、ナントカ通るように直してみた。
 まあつまり、そういうことです。

 ツクールがデバッグ調整に入ったので、次のものをさあ考えよう!とか馬鹿な衝動が込み上げてきた結果。いわゆる経営系とジャンル分けされるんでしょうか、そんなものを作ろうかと思ってます。話には聞いていた「アトリエ」シリーズとやらの妄想を、実際に組み立ててみようという、そういう試み。ツクールプログラミングのチカラを鍛えなければなりません。
 それなりに面白いお話が作れそうです。が。私の手に負えるかどうか。

 っていう、妄想ですね。
 作ると決断したわけではありません。このシステムを設計できて、なおかつ運用できると判断した場合にゴーサインが出るんではないでしょうか。自分のことですが何故か他人事です。ツクールXPとか使ったほうがいいもの作れるんだろうってのはわかってるんですが、あれ、ツールとしてのできはともかく、ゲームそのものの使い勝手がどうにも悪いので、気が乗らない。
 なんというか、時代遅れの波に乗ってロートル・ツールと自分の限界に挑戦するっていうところが、なんとも自由研究みたいで楽しいです。でも、2000ユーザはけっこうな数がいるみたいですよ? なぜホワイ?

 ツクールによる設計が自由研究なら、あれです。
 魂魄譚は「宿題」。

2006年11月22日

製作日記

 はろろーん(しつこい。

・なんか六日ほど更新していませんでしたが、その隙に完成しました。
 その隙にっていう言い方もおかしいですが、完成したのです。
 もう一度言っていいですか? 完成しました。

 で、私のパソコンの特技は「何かを作っているときにデータを壊す」というもので。
 なんというかハタ迷惑極まらんのです。
 実際SAも一度、ハードディスクもろとも吹っ飛んで友人近隣に大迷惑を(というほどでもない)かけまして、なんかこうして完成したのが夢のようなんですが、そういえばこのゲーム、「全部吹っ飛んだからイチから簡単なヤツ作ろう。デバグする必要ないくらいの」という動機から作成されたものだったのでした。
 そりゃ吹っ飛びもしません。
 魂が込められた一品は何度も破壊するくせに、こういうどうでもいいものには見向きもしない我がパソコン。いっぺんブチ壊したろかとか思ってしまいますねー! ハハハハハよし殺す!

 いちお、デバグ途中のものですが、ここにおいておきますね。
 りどみはこれからなので、正式に公開するときにくっつけたり貼ったりします。

 ω・)ノシ = 

 残るはデバグだけ。がんばります。

 ばいびーん

2006年11月16日

カウボーイビバップ

・ええええええええええええええええええ。

 ビバップ映画もありましたか?

 これはエマいので捜してこよう。
 ついでにクレヨンしんちゃんのオトナ帝国と戦国なんたらも観たいです。
 オトナ帝国はずっと以前に観たし、そのときに感想も書きましたが、それを捜すのが一苦労です。
 見直したほうが早い。

2006年11月15日

しょこ整理

・部屋の洋風押し入れは私の 書物蔵 兼 物置 になっているのですが、腐海化が進んでいます。
 片付けなくちゃいけないんですけど、おそらく一日がかりになるのでヒマを作らないといけません。
 読まない本を奥に追い込むのが主な作業になるでしょうが、読まない本ってのが無いので困ります。
 エロゲもスペース取るので困ったちゃんだし、辞典や図鑑は規格外ばっかなのでまとめることが難しく、ラノベあたりはもはや私にとってはネアンデルタール人の使っていた石器とか(汎用性も実用性もない)そのくらいの「お宝」になるんですが、だからといって処分もできないというぬぬぬぬんーん。
 ベッドの下まで侵食しているので、秘蔵本の隠し場所の定番がハイひとつ消えたー。って感じ。

 私の所持するものの中で秘蔵と言わしめるほどの価値がありそうなのつったら「Cats in the Sun」(続編~Kitten が出たらしい)や「EVA」あたりの写真集と「灰と青春」JICC版、あと図鑑や辞典などの実用性ありそうなものくらいだけど。ンなもんベッドの下には入れません。

・今日もせっせとツクールしてます。

 ラストダンジョンまで進みました!
 デバグも進行上問題になりそうなもの一通りは潰したし、ラスボスも作ったので、
 あとはラストダンジョンを作ってイベントをつなげるだけです。

 ふっふひひ!すみません!

2006年11月10日

姉ちゃんの詩集を見つけた

http://www20.atwiki.jp/chinya/
 WIKI まとめページ。

 個人的にはスレの流れも面白さを助長していると思うので、
 http://www.kajisoku.com/archives/eid420.html
 こっち見たほうが笑えます。

 書籍化決定したようですよ?

2006年11月09日

文化庁メディア芸術祭以下略

日本のメディア芸術百選
 やわらか戦車にまつわる流行操作云々批判の記事からなんだけど、
 38、39、45位に注目。


 せーけん!せーけん!
 とりあえず主題を見失って狂喜乱舞してます。せーけん初代!

2006年11月08日

荒れ荒れですぅ

・http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1162901443/
 にちゃんねる「いじめ悪くない。いじめるのも個性」の発言に関する問答(?
 すぐ消えるだろうからリンクは張りません。

 おおまかに論争の焦点を拾うとこんなかんじか。

 ・いじめられる側が悪い
  「んなこたぁーない」

 ・イジメのなにが悪いのか

 ・イジメは犯罪。しかし児童ナントカ法で守られてるからグレー
  「だったらどうにか処罰出来るようにするべきだ」

 ・いじめは快感。
  「それは攻撃的な動物である人間であるため仕方がない(当然である)こと」
  「脳障害の恐れ有り」同様のものに「脳には愛を感じる器官があり、その部位の未発達、疾患などが原因で心の痛みを感じられない人間も居る」というのがありました。

 ・その他くだらんこと。

 スレに書くほどでもないので(つーか頭悪い頭悪いてお互いに貶しあってるだけだこのスレ。
 私の考えをここにまとめておく。
 ちなみに私は「いじめられた側」であるため、そちらに視点がシフトしているのはご容赦。

 >・いじめられる側が悪い
 もちろんこれには答えることができない。なぜなら Yes であり No であるから。ケースバイケースという便利な言葉があります。
 実体験から、身体的な特徴を持ち出していじめの基盤とする場合のいじめについては「No」と言えるでしょう。また思考、嗜好、指向など周囲と相容れないものを持つ人間を迫害するのは、まあひどく当たり前のことながら「No」です。
 では「Yes」の場合を考えてみましょうか。いじめられて当然といえる状況。
 まず「因果応報」。かつて自分が行っていたことが己の身に降りかかっている場合ですね。断言できかねますが限りなく「Yes」で、私はおそらく被害者を助けるために動いたりしません。もしもヘルプを求めれた場合には助言するか、そのときの状況を読んで現実的な対応をするでしょう。どんなに恨みがあろうと、タブン断ったりはしません。タブン。そして、加害者がヤなやつなら個人的な感情でそれを糾弾するために働き、間接的、結果的に被害者を助けてしまうかもしれませんが、まあ已む無し。それで被害者がまた加害者に回るようなら、全く同じ方法で叩きのめしますが、更生しないでしょうねそういうバカは。
 次に、いじめそのものが「被害者の妄想」であり、それが発端でいじめに等しい状況が展開されているという場合。本文そのまんまなのでノーコメントで通したい。けど、書いておかなきゃな。「妄想」と表現しましたが、まあ被害者本人の主観なので現実をどうとでも捕らえることが可能なのです。例えば「取り落としたシャーペンを偶然蹴っ飛ばした」ってな場合。この程度のことですから蹴っ飛ばした人間は「やーごめんごめん」と軽く笑って済ますものですが、本人は「いじめだ!」とジンマシン発作みたいな過剰な反応を見せます。そして妄想は広がるわけです。やっかいなことに現実にあるらしいですよこういうケース。まあ補足として。「いじめに等しい状況」というのは村八分というか、周囲が関わりを持ちたくなくて個々の判断で無視しているような状況ですね。これ、傍から見れば集団で無視しているようなものなので、これは私はシロとみなしたいのですがグレーです。
 まだありますが、もう長くなったので次に移ります。ケースバイケースなんですホント。

 > ・イジメのなにが悪いのか
 「どうして人を殺してはいけないの?」
 という法の初歩の問題ですね。なぜなに相談室でもあったんじゃなかったっけ?
 他の動物だってイジメで弱者を淘汰してるじゃないか! とかあほらしい意見を述べる方々が多いのがミステリーなんですが、じゃーお前は鶏小屋の鶏君ですか? サル山のエテ吉君ですか? エテ吉懐かしいなあ。(そーじゃない。
 まず、自分たちがどういう生き物なのかを把握して、普段から何に守られているかを思い出しなさい。
 解答例は、
 「私は殺されたくないのであなたを殺しません。だからあなたも私を殺さないでください」
 「私はいじめられたくないので誰もいじめません。だから私をいじめないでください」
 という暗黙の約束事があるから。
 この論は、しかし、脳みそがおガキさまな人間には理解できません。
 なぜならやつらは「じゃあ誰がボクを殺しても許すから、ボクはあんたを殺すよ!」という例外を作り出す鬼才だから。そういうお話じゃないんだが、このような返答には「それってなんてバトロワ?」という煽りが最もふさわしいと思う。っていうかそういう話でもないか。まず日本の法が、上記の解答例を基に作られているものなので、そういう身勝手な例外は許されないんです。
 (しかし、個人的にはこう解釈してます。「殺人」という行為に必要な覚悟とは、自分が周囲の誰から殺されても文句を言わない覚悟だ。だからまず「殺す」より前に、相手にその旨を伝えておかなければならないんだろう。それをしない「殺人」は、だから不意打ち、辻斬りのような不当のもので、罪であり犯罪である。殺人に問わず、他の法律も似たようなもんだ。
 いじめをしてはいけない理由。
 いじめられたくないという誰かが居るから、してはいけない。良心の問題であり、法の基本でもある。

> ・イジメは犯罪。しかし児童ナントカ法で守られてるからグレー
> 「だったらどうにか処罰出来るようにするべきだ」
 珍解答です。
 この問題に「どうにか処罰できるようにするべきだ」という答え方をするひとは、真女神転生をプレイした場合きっとロウへ傾きまくることでしょう。圧倒的な力のもと、あがらう事も出来ない強力な「法」の鎖に縛られて、それで人間として幸せでしょうか。
 日野個人の考えでは「非常に疑わしい」ものです。あくまで個人的な主観にもとづく考えですよエエ。
 まず何のための「児童刑法」であるか。
 児童である「子供」とは、間違いを起こすものです。間違いを「いけないことだ」だと教えられて成長するものなのです。そうした中でもし、刑法に触れるような重大な「間違い」を仕出かしてしまった際に、一般の大人たちと同様に名前や年齢、住所などを公表してしまうとなると、その後の人生に大きく支障が出てしまう恐れがある。小さい頃のあやまちひとつですべてを棒に振るようなことにならないように、児童の未来を守るために、児童刑法というものはあるのです。私はそう考えます。
 そして昨今の「児童犯罪」(いじめも含む)に潜む悪とは、彼らを教育しなければならない親にある。
 彼らが教育することを放棄したからこそ、彼らの子供が「児童刑法」をかさに悪事を働いているのです。
 もし子供の犯罪に対して訴える時があれば、私は親を叩きますね。そして刑法は、児童刑法に引っ掛かるような犯罪に対する処罰対象を、その保護者に向けるべきです。何故今までそうしていないのかが謎なので、今度調べてみたいと思います。法律相談所とか、近くにあったかしら。
 結論:バカ親は死ね。

> ・いじめは快感。
 Yes。肯定します。
 しかし、だからこそあがらわなければならないというのが集団社会の実情です。
 快楽にたた溺れるだけで良いのであれば、なぜ「法」があるのですか?
 「法」はある種の快楽を否定し、罰するものです。「法」の歴史を少し遡れば、それは「宗教」とほぼ同意のものです。宗教は実行力を伴わない、それぞれの心持ちにすべてを委ねている「ルール」です。現代では人口の増加に伴い思想の自由が蔓延してしまいましたので、「個々の良心」などという曖昧なそれだけでは到底抑えきれません。なので時代は警察という「法の実行力」を作り出しました。
 「法」はかつての神の訓えであり、「警察」はかつての司教と、道教の者たちの目です。
 それが忘れられ、法が「なんでだか守らなきゃならない理解不能な束縛」という曖昧な形骸と化してしまったので、すさんだ「今」があるって感じですね。前述しましたが、法とは「自分がやられてヤな事は他人がやられてもヤな事なんだから、人が嫌がることはやめましょう」って、ただ、それだけのことなんです。「法の網目をかいくぐった知能犯罪」なんてスリルと魅惑でこてこてに味付けされたような悪魔の言葉に踊らされてちゃ、まだまだです。全然かっこよくないし。
 で、いじめの話に戻りますけど。
 いじめが快楽を満たすというのは、ぐぐれば出てくると思いますけど科学的に立証された論です。だからといって実行していいとは限りません。そんなの、私なんかに言われなくてもわかってると思いますけど。さんざ書き散らしましたが「私はいじめられたくないのであなたをいじめたりしません。だからあなたも、私をいじめないでください」。人がヤだって言ってることはあなたにとってもヤなことに違いないので、人が嫌がっていることをしてはいけません。

 一時的に男全般が嫌いになった、そして今でも一部の「男」性部分を見ると心身に拒否反応が出るのは、いじめられてた頃の経験が原因だろうと確信しているので、この恐怖症もPDなんとかと言えるかも知れません。トラウマです。
 友達に対しても時偶に出てくるので油断なりません。いじめられた側は覚えているのです。心と体が。

2006年11月07日

ZOKU

・読んだもの、聴いたものを文章にして保存することを、なぜかしら続けている。
 理由なんてないけど、強いて言えば文章力の強化のためとかそんなちんけなものです。
 戯言日付ではやっておらず、確か想庫を作るときにそういうことを…と記憶しているけど、いや戯言日付でもやってるな。何度も。どっちが先だったか、調べれば分かりますが、今更どうでも良いことです。ともかく、何かの動機があってはじめて、それがこうして形式はそのままに、場所を拡大して書き散らしている。そんな感じ。
 これを書いているのは戯言日付含む日記内のみで、日記を書き始めるより以前に読んだ本の感想は、おそらく書いていません。そして、繰り返し読んだ本の感想もまた、書いていません。そのうち、新たな発見があった場合にのみ、一言なり三言四言なり、言及しているかな。例外としてクリスクロスくらいは書いたかもしれないけど、うーん古い本は書いたかなあ。書いたとして、もう残ってはいないでしょう。
 もしデータをお持ちの方は、レアですので私にもください。

・それでは今日読んだ本。光文社の「ZOKU」の文庫版かな。
 一言で表現すれば森博嗣が書いたラノベ。
 ただし、彼特有(意識してかそうでないかは問題ではない)の皮肉が利いているため、ラノベから離れて久しい今の私でもそれなりに読める。今なら、森博嗣氏フェアーか新刊扱いかなにかで平積みされているところもあると思うから、入手は感嘆、もとい簡単であるはず。少なくとも私はそうした状況で目にとまったから購入しました。
 中身は、ホント「ラノベ」、てな感じで。
 私個人の語彙としてラノベとは、キャラの個性でもってストーリーを進行させるものをそう指していますが、今のラノベにそういうものが有るのか無いのか、残念ながら調べておりませんので、現代に通用する定義かどうかは定かではありませんあしからず。
 森氏特有のソリッドさは皆無ですが、水柿助教授のような言葉遊びが多数出現しますのでオススメしておきますよ。

 ところで差込で、新刊案内なんかが入っているものですが、今回ちょっと目に留まった記事があったので紹介。紹介といっても、面白そうな本があったとかそんなんではありません。むろん摂取した食物を溶かす人体内の器官であるはずもありません。

 日本ミステリー文学大賞 新人賞
 「新しい魅力と野心に溢れた才能を求めます」

 私には野心が足りないだろうから無理だな。何よりミステリなんて書くものじゃない。あれは読むものだ。いや、ミステリの要素というか、エンタテイメント性は評価すべきだと思うし、使いこなしてナンボだとは思うけど。
 正賞でシエラザード像、副賞で五百万円もらえるらしいです。皆が欲しがるものは副賞だろうケド、まあ、逆だったら、世間体が悪いというか。ところでシエラザードって、しかもその像、コンパクトで省スペースな彫刻って、ナンデスカ? 裸婦像みたいな?
 謎の固有名詞が頭から離れません。

思考の文章化

・思考の文章化、サボっていたらその習慣を忘れてしまってた。
 しかし最近、このところ文章という単純な形に収めなければショートしてしまうような事件が頻繁に身に降りかかってくるので、自動的に復活しつつあるようです。そしてその内容に面白い発見がありました。
 私、私の文章、というものを探る。そういう地道な行為を再開していたところにですね、この習慣が復活すると、こういうことになります。
 「文章を構築」しながら「それを客観視」する。二重の思考。
 もともと二つ以上のことをこなせるほど、すぐれたキャパシティを持ち合わせていない私なので、始まった途端に周囲が見えなくなります。視界が消え去ることで物理メモリに余裕ができて、「二重構造を認識する」という第三の思考まで出現します。そして、それが面白くなって思考がフリーズするわけです。己の限界を知る、というわけですね。
 今回の発見で何が面白いかというと(説明を加え始めるとギャグとしては三流以下なのですが)、二重の思考のうちひとつに「客観視」という作業があります。そしてさらにそれを俯瞰する三つ目の思考があるわけです。二重の思考に、二重の監視。ほら、二重になったらもう目的が見えなくなっている。目的といえば、そもそも「文章化」する理由が現状の冷静な把握だったにも関わらず、一度フリーズしてしまったものだから混乱の原因がもう、さっぱり頭から消え去ってる。ついでに、この文章の目的もほら、なんだったか分からなくなってきましたよ。今回の発見の笑いどころでしたね。「手段のために目的を見失う」という古典です。この文章もそうです。そして、
 そういうときにこそ段落が変わる。
 段落が変われば、各文の繋がりが多少ぎこちなくても誤魔化せる。
 それが文章の便利なところです。

 蛇足ながら今日のまとめとして、
 ただ最近、自分の文章から無駄が省かれつつあるのかなと、今と後ろを振りかえり気付くのです。昔の文章を読んで、意図を汲んで、今ならこう書くのにな、と思えるのは、進歩している証でしょう。
 いや、そもそもすべての文章に意味などないのですが。

2006年11月06日

わらっても、いいかな…?

・私、わらっても…

 千葉イメージ一新

 うりますかいますどせいさんです。

夢・出逢い・魔性

 ああ、瀬在丸紅子でV.C。だからVシリーズね。
 質問にお答えいただきありがとうございました。
 
 そんなわけでVシリーズ四話目「夢・出逢い・魔性」です。
 解答がないとコレ、ぜってー解かりませんて。
 「二重の意図、不都合ゆえの無意味な行動。いぬ。」
 話の中盤頃からすでにミステリに見切りをつけて、お話として読んでました。
 確かに、登場人物の中に犯人(この言葉に疑問はありますが、一般的な語彙から選出するならこの言葉しかない)が居なければならないという決まりはないし、現に犯人さんはちゃんと登場してますけど。だけどさ! 完全無欠に、たった一つのほつれすらも見抜けなかったので白旗です。二人のヒントが無けりゃ犯人の意図すら読めなかった。っていうか、犯人をまったく絞れなかったあの地点からすでに考えることを辞めてた気もする。
 例えば先日読んだので宮部さんの「レベル7」を引き合いに出しますが、森博嗣氏の最近の作品の「犯人」には、「レベル7」のような絶対的な悪意が無いので私の直感に全く引っ掛からないのです。このシリーズでは「モナリザ」くらいだ。…といいつつもキモになるひとつの謎を解けなかったので、こちらも敗北ぎみか。「月は幽咽のデバイス」これは、死因というか、現場検証のときにはっきりと○○だと直感しましたが、えーと。あんな仕掛けは見抜けるか! ってな話なので、えーと、敗北? 「犯人以外は嘘をつきません」カードを森氏は提示しておくべきだね! うん。
 そもそも、森氏と戦おうというその欲求がすでに稚拙なのかも知れん。まあ、負けてますよ。
 
 このシリーズで最も秀逸なのは「黒猫の三角」であるという点は、誰でもない私が認めるところです。

2006年11月04日

あー。そっか。


・となりの801ちゃんが書籍化!

 って記事で、著者の「小島アジコ」って誰だ?
 と、ふと疑問に思ったんですよ。

 みかん星人でした。


 つーかどっちもチェックしてるくせに気付けよ私。

2006年11月02日

トロイ爆弾

・知らないうちにウイルス食べてました。仕事しろよノートン。

 どこか怪しいサイトで踏んだかなーとか、いろいろ振り返っては見るのですが、全然身に覚えが無い。
 覚えがなくても事実、勝手にジャカジャカメールを送りつけるメールサーバもどきマシンに変貌させられていたんで、ってーかそのときもご丁寧にウイルスチェック掛けたりして作業のお手伝いし腐ってやがりましたねノートン。殺すぞ。そんなんなので、回線引っこ抜いたりつなげたりしながらアンブレラさんとかスパイボット王子とかに検査頼んでみたら出るわ出るわ。
 脅威レベル4以上のトロジャンバスカイ。その他27項目が検出。
 スパイボット王子「サーチ&デストロイ」の台詞よろしく片っ端から沈黙させていくも、メールサーバ状態はいっこうに直らず。ついでなのでキャッシュやクッキーの食べかすなんかもガスガス消して、アンチウィルスソフト3機によるセーフモードでの絨毯爆撃。加えて怪しいスタートアップもガスガス登録抹消してみたんですが、おそらくこれが最も効いた。あっさり解決。

 その後、何となく覗いてみたテンポラリフォルダには怪しい数字のみのフォルダがどっさり。おまけに用途不明の dll なんかがあったりして、ここにマシン占拠テロ実行部隊のアジトを発見した思いだった。まあ死んでるけど。

 今回のことで分かったのは、ノートンは役立たずという当たり前のことではなく。
 定期的な掃除は行うべしという、コレも当たり前のことだった。

 (いっぱいノートン馬鹿にしてますけど、本気で対応が遅いです。アンブレラや王子なんかのフリーソフトにも劣るくらい。いちお、唯一役立っている機能にメールの検閲チェック、定期的な復元ポイントの作成、というのがある。特に忘れがちな復元ポイントの作成はありがたいものだけど、それが必要になるほどの事態だと、クリーンインストールを考えたほうが心の健康には良い気がする。ホント、自衛が大切だと教えてくれる素敵アンチウィルスプログラムですファック。