思考の文章化
・思考の文章化、サボっていたらその習慣を忘れてしまってた。
しかし最近、このところ文章という単純な形に収めなければショートしてしまうような事件が頻繁に身に降りかかってくるので、自動的に復活しつつあるようです。そしてその内容に面白い発見がありました。
私、私の文章、というものを探る。そういう地道な行為を再開していたところにですね、この習慣が復活すると、こういうことになります。
「文章を構築」しながら「それを客観視」する。二重の思考。
もともと二つ以上のことをこなせるほど、すぐれたキャパシティを持ち合わせていない私なので、始まった途端に周囲が見えなくなります。視界が消え去ることで物理メモリに余裕ができて、「二重構造を認識する」という第三の思考まで出現します。そして、それが面白くなって思考がフリーズするわけです。己の限界を知る、というわけですね。
今回の発見で何が面白いかというと(説明を加え始めるとギャグとしては三流以下なのですが)、二重の思考のうちひとつに「客観視」という作業があります。そしてさらにそれを俯瞰する三つ目の思考があるわけです。二重の思考に、二重の監視。ほら、二重になったらもう目的が見えなくなっている。目的といえば、そもそも「文章化」する理由が現状の冷静な把握だったにも関わらず、一度フリーズしてしまったものだから混乱の原因がもう、さっぱり頭から消え去ってる。ついでに、この文章の目的もほら、なんだったか分からなくなってきましたよ。今回の発見の笑いどころでしたね。「手段のために目的を見失う」という古典です。この文章もそうです。そして、
そういうときにこそ段落が変わる。
段落が変われば、各文の繋がりが多少ぎこちなくても誤魔化せる。
それが文章の便利なところです。
蛇足ながら今日のまとめとして、
ただ最近、自分の文章から無駄が省かれつつあるのかなと、今と後ろを振りかえり気付くのです。昔の文章を読んで、意図を汲んで、今ならこう書くのにな、と思えるのは、進歩している証でしょう。
いや、そもそもすべての文章に意味などないのですが。