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2007年11月29日

製作日記

・おひさしぶりです。
 今日は久しぶりにツクールでの実作業。
 まったく機能してなかった「属性」辺りのことを修正してましたヨ。

   うん。「機能してなかった」んだ。すまない。(´・ω・`)
   仏の顔もって言うしね、謝ろうとも許してもらおうとも思っていない。

 これバーボンハウスでもなんでもなく、純粋にツクールの仕様を理解していないバグだった。
 今度こそ、属性攻撃でのダメージ増減が働くようになったと思う。にやり。
 (が、モンスターの耐性設定が途方も無い量なので今日一日じゃあ終わらなかったのだった。
 明日には、まあ、実際に確認できると思う。お話しのほうは餌つけて釣り糸垂らしてる状態です。
 すべてはまた明日。
 うふふ(白く濁った目で。


 

2007年11月28日

ウサビッチ

・面白すぐるので張。

 

2007年11月25日

リスメド氷河地帯

・ルドラの秘宝「The Spirit Chaser」を聴くためだけに更新しています。
 ほかにやること無い。

・朱色の研究にて有栖川有栖が、探偵という役柄について「さながら巫女のような」と漏らしていますが、この部分だけを用いるならば彼、有栖川有栖もまた、己が内面から浮き上がる小さな気泡を拾い、拾い集めて幾許かの形を与える「さながら巫女のような」職業的役割を持っているような気がします。かつてどこぞの地方紙が、今ヒロイックストーリーが持て囃されるのは「(彼女らは)さながら巫女のような」立場に置かされているからなのだろうと、今でも割りと笑えるコラムを書いていました。私はあの頃書いたことと同様に、ヒロイック(女性主人公)が流行るのはオタ=萌え商業がそこそこ安定して稼げる、という式が成り立つから、ただそれだけのことだと信じていますが、しかしこの構図。彼のコラムと照らし合わせることが不可能では無いような気がしてきました。
 まあ、戯言ですので聞き流し推奨。あらゆる意図を無視して「巫女」という一点のみを見てみる。巫女というのはいわゆる「人柱」的な意味もあり、まあ神様の「俺の嫁」なわけです。神様が「こいつは俺の嫁!」と認める女性、これと女性主人公を置き換え、さらに彼女らをありがたいもののように崇拝するオタどもを加えてみる。そして、かつて巫女の取り仕切った神事(神様の嫁が、篝火焚いたり舞いを披露したり、メイドの如く働く様)に集まる心身深い民衆と、周囲にもたらされる金銭的影響とをダブらせてみると。
 うむ。確かに一見、こいつは「さながら巫女のような」役割を果たしているといえなくも無い。
 面白いなあ。巫女萌えとか意外と馬鹿に出来ないぞウウム。
 
・ちょうど曲が盛り上がってきたので寝ます。

2007年11月24日

モナーズカフェ

・萌え系喫茶とか流行ってたじゃないですか。
 そんで最近、またぞろ2ch言語を日常生活で使う奴ウザオって風潮があるじゃないですか。
 だったら「2ch喫茶」とかどうですか。ぶーんし放題、終わり放題。ティウンティウンはおかわり自由、そこらでぼこぼこにしたりチャーハンしたりと祭りが頻発。女装してロリコン童貞釣りあげて、その釣果の程で割引サービスタイムとか。新ジャンルだって作り放題!

 VIP喫茶の間違いでしたかね。

・ボナーズカフェってのが、この辺境の地「熊本」にもあるらしいんですね。
 で、私自身、それと知らずに利用したことがありまして、これがはてなシュランに取り上げられてることに気づいて「あーうんうまいよねコーヒーしかなかったけど」と独り頷きうなずき、ひとしきり満足したところでふっと思いついたのが上記の2chカフェ。正直、どうですか皆さん。私はなんか、入店せずに缶コーヒー握り締めながら外から眺めていたいようなジャンル喫茶ですけど。

・買い込んだ本をすべて読み終えてしまったので、ちょと干からびています。
 十二月のアタマには太宰府天満宮で受験の神様(そんなん居るのか?)にお参りしてこようと思うのですが、そのついでにまたドカドカ活字を補給する必要がありそうです。なんかお勧めの活字体ありますでしょうか。
 ラノベは読んだ気にならないのが玉に瑕ですなあ。やはり古き良きミステリ、エラリィたんとか集めようかなあ。青空文庫にあれば買う必要無いんだろうけど。

2007年11月18日

何度も言うよー君は確かにー

・僕を愛してくださいー。

・ふざけてる場合では無く。
 変な体勢で本を読んでいたおかげで背中とか肩とか、上半身をほぼ全体的に筋肉痛とは違うひきつりで満たしてしまいました。これはいかんぞ。タイ式マッサージとかに期待。

・本題。
 いーかげん覚えて欲しいんだけど、メモを取りなさい私。
 以前から何度か話題としてここにも書いてきたことだけど、私は何かを書くとき(つまりストーリーというものを構築する際に)メモというものを取らない。取ったつもりでも、後に振り返ることを想定していない散文であることが多数なのですね。
 メモ取れよオレ。

 今回もメモと呼べない代物、イコール散文をキッチリ書きとめていました。
 で、ストーリーの細かい部分が読み取れないまま作ったので(つーか作ってる最中でもいいから書きとめていけばいいのにオレ)、現在、途方にくれてます。わからない。自分が何を考えて作っていたのかすらわからない。話が繋がっていませんよお父さん(マスオ君!)。
 
 それではメモの書き方をメモします。
 今の自分が、このゲームを作る上で「客観的に」欲しいと思う事項を並べます。
 まずは必要なものですね。

 ・土地に関する情報(交通、歴史、建築見解、現在の状況、内部の構造、住人の数や傾向などなど。イベントに関してはさておいた、あらゆる情報)。
 ・主人公一派、および登場人物に関するデータ(これが何より嫌いなんですが仕方が無い。必要と思われる、ゲーム中で提示する市内に関わらずあらゆる情報)。
 ・現在が、歴史の流れの何所にあるか(前後の「詳細な」流れを記述)。

 最低限、これだけは欲しいです。お願いしますねオレ。

 ・土台となる世界倫理、法則。
 (幾つか出没するキーワードへ対して、なんか論文でもでっち上げてください。その上で教科書的にでもまとめてくれればなお最高)
 ・個々のストーリー、および全体に流れるテーマとか。
 (むしろ無いほうが清々しているというか私らしいんだけど、あるなら下さい)

 以上が、イチから物語を作る上で欲しいメモです。
 どうせ白紙から始めるつもりなので、まあ、明日でもいいからとっとと書いてください。

2007年11月10日

私の哲学というか思考の末端

・哲学と言えるものか定かでは無いけれど、とりあえず以前から続けている思考活動。
 思考活動と表現してしまうとこれは私の行動のほとんどに当て嵌まるとか当て嵌まらんとかと小難しい無限回帰になってしまうのだけど、とりあえずこの文章においてのみ「哲学的思考」を単に「思考」としていると思ってください。で、えー思考だけど、私の場合、根がネガティブなので、放っておけばとことん自分を否定する方向に走りがちになる。なので意識的に軌道修正を加えつつの思考活動を心掛けているのです。

 例えば、基本的な難問@「私は誰?」
 に対して、取りとめもなく思考を走らせるとゲシュタルト崩壊を起こしそうになる。
 なので、そうなる前に「その疑問点の起源が私」という具合にズパッ!とと打ち切る。
 誰かと対話中に稀にこの話題になった場合においては、さらに「『貴方という私』の中に居る私が『私』だ」と一見する限りは詭弁臭い返答も可能になる。が、こんなこと考えるのは通常、会話すら成り立たない己個人のみの場合なので、まあストックとしての答えになる。支持するのは判りやすい前者(後者は右肩下がりなので。

 哲学とかイメージが先行している「非物証」タイプの学問(これもイメージの支配が強い多分に誤解が含まれる表現なんだけど)を「あー哲学哲学(笑)」と嘯きつつ思考している私のような人間でも、まあアリストテレスだとかプラトンとかデカルトとか、代名詞のような人たちの基本的な考え方くらいは知識として持っていて、かつニーチェとかカントとか髭オヤジとか信者が多いらしいという中世および近代の人たちは自由意思を以って近寄らないようにしている。おおまかには知っているけれど踏み込みたくない、乙女心にも似た心境というか。あと臭そう。
 プラトンの「真なるイデア」について、私は当時から好意的に見てる節があり、なおかつ最近「クオリア」を哲学、脳科学の面から齧ってみたため、見直した。「お前ってやれば出来る子だったんだ」と感心している。
 発想が面白い、という単純明快な理由ももちろん、「クオリア」ってのは概念的にはプラトンの「イデア」と通じるものがある。
 「イデア」は、乱暴だけど「『イデア』という真実の型が神の御手にあり、それが神の威光なりなんなりの『影』としてこの世界に投影されて居るに過ぎんのだ」とかいう考え方。と、認識してる。
 対して「クオリア」は、極めて自然学に近い立場で「『リンゴの“赤という色彩”』という知覚が、私自身に届く直前の状態を指す言葉であり、それを受けて発生する『感覚』である」と定義している。ってか、私はこの「クオリア」そのものが実に「クオリア」として「ある」なあ、と認識しているので、定義するのが難しいです。はい。
 この二つは私の目で比較すると同じ構造を持っているので、実に感心した。原典回帰?
 でも、「私」を殺さなければならない「クオリア」よりも、ファンタジーな「イデア」の考え方が、真実に近いかどうかは別として、好きです。というのも、私はどうしても「観察者」として「私」を切り離すことに若干、抵抗があるのです(これは好みの問題で、唯物論絶対主義なヒトには噴飯もの嘲笑ものの考え方らしい。禅道とか唯物的だと思う)。
 たぶん、「私」が思考体としてここにあるのが前提なので、「私などいない」という捉え方が納得ゆかないのだと思う。こんな風に、哲学ってのはまず「前提」や「仮定」のような出発点を用意して初めてスタートを切れるものなんだろう、だから私の考えも幼稚ながら間違ってはいないんだろうし、唯物とか自然派とか「あるものがある」ヒトたちも間違ってはいないはずです。
 またネガティブに奔り始めていたので強制軌道修正。

 まあ、「ある」ってなによ? とか言葉を尽くしたところでまだ足りなさそうな疑問を真剣に考え抜いた人もいるし、「まこと正しきこと」「真実」など妄想に過ぎんのですよ、となんか私とは違う方面に驀進しちゃったヒトもいるし。着眼点次第、考え方、視点次第でどうにでも解釈できる素晴らしさ。それが哲学。
 人生指南も実用的な哲学の一端だと思うけれど、
 私はこれを「(内包するという意味も含めて)『私』を取り巻く世界の解釈の追及」として、こねくり回してます。

 ちょーたのしい。

2007年11月09日

ニコニコでコロンボを見る休日

・コロンボ面白え。

 ヒトをイライラさせるペースマイペースな会話が素敵すぐる。
 そしてゴメン。
 ニコニコを侮っていた。まさかコロンボまであるとは…。

2007年11月02日

今ここ

・朝起きてクミちゃんの様子を見るのが日課です。
 今日(休日)の私。


 ・ケージを覗く。

 ・クミちゃんの姿が見当たらないことに気づく。

 ・フタの隙間を確認。脱走の可能性が高い。

 ・とりあえずベッドの天板を外してケージ周りの捜索。

 ・もう一度ケージ内部を綿密に調査。
 普段入りたがらない(大きさが気に入らないらしい)様子のシェルターの内部もチェック。

 ・エマージェンシー発令。第一ブロック(自室)強制閉鎖、隔離を敢行。

 ・第二ブロック~第四ブロック(要するに家全体)の探索。
 彼女が逃げ出した形跡を発見できず、第一ブロックに焦点を当てて再捜索。

 ・適度に散乱している塵を片付けつつ、大掃除を決意。

 ・順序だててクミちゃん捜索活動を行う、そのために再三ながらケージ内のチェックを開始。
 シェルターに軽く息を吹きかけてみると、足が出てきた。
 
 ・以前より散らかった部屋を見渡して絶望。  ←いまここ