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私の哲学というか思考の末端

・哲学と言えるものか定かでは無いけれど、とりあえず以前から続けている思考活動。
 思考活動と表現してしまうとこれは私の行動のほとんどに当て嵌まるとか当て嵌まらんとかと小難しい無限回帰になってしまうのだけど、とりあえずこの文章においてのみ「哲学的思考」を単に「思考」としていると思ってください。で、えー思考だけど、私の場合、根がネガティブなので、放っておけばとことん自分を否定する方向に走りがちになる。なので意識的に軌道修正を加えつつの思考活動を心掛けているのです。

 例えば、基本的な難問@「私は誰?」
 に対して、取りとめもなく思考を走らせるとゲシュタルト崩壊を起こしそうになる。
 なので、そうなる前に「その疑問点の起源が私」という具合にズパッ!とと打ち切る。
 誰かと対話中に稀にこの話題になった場合においては、さらに「『貴方という私』の中に居る私が『私』だ」と一見する限りは詭弁臭い返答も可能になる。が、こんなこと考えるのは通常、会話すら成り立たない己個人のみの場合なので、まあストックとしての答えになる。支持するのは判りやすい前者(後者は右肩下がりなので。

 哲学とかイメージが先行している「非物証」タイプの学問(これもイメージの支配が強い多分に誤解が含まれる表現なんだけど)を「あー哲学哲学(笑)」と嘯きつつ思考している私のような人間でも、まあアリストテレスだとかプラトンとかデカルトとか、代名詞のような人たちの基本的な考え方くらいは知識として持っていて、かつニーチェとかカントとか髭オヤジとか信者が多いらしいという中世および近代の人たちは自由意思を以って近寄らないようにしている。おおまかには知っているけれど踏み込みたくない、乙女心にも似た心境というか。あと臭そう。
 プラトンの「真なるイデア」について、私は当時から好意的に見てる節があり、なおかつ最近「クオリア」を哲学、脳科学の面から齧ってみたため、見直した。「お前ってやれば出来る子だったんだ」と感心している。
 発想が面白い、という単純明快な理由ももちろん、「クオリア」ってのは概念的にはプラトンの「イデア」と通じるものがある。
 「イデア」は、乱暴だけど「『イデア』という真実の型が神の御手にあり、それが神の威光なりなんなりの『影』としてこの世界に投影されて居るに過ぎんのだ」とかいう考え方。と、認識してる。
 対して「クオリア」は、極めて自然学に近い立場で「『リンゴの“赤という色彩”』という知覚が、私自身に届く直前の状態を指す言葉であり、それを受けて発生する『感覚』である」と定義している。ってか、私はこの「クオリア」そのものが実に「クオリア」として「ある」なあ、と認識しているので、定義するのが難しいです。はい。
 この二つは私の目で比較すると同じ構造を持っているので、実に感心した。原典回帰?
 でも、「私」を殺さなければならない「クオリア」よりも、ファンタジーな「イデア」の考え方が、真実に近いかどうかは別として、好きです。というのも、私はどうしても「観察者」として「私」を切り離すことに若干、抵抗があるのです(これは好みの問題で、唯物論絶対主義なヒトには噴飯もの嘲笑ものの考え方らしい。禅道とか唯物的だと思う)。
 たぶん、「私」が思考体としてここにあるのが前提なので、「私などいない」という捉え方が納得ゆかないのだと思う。こんな風に、哲学ってのはまず「前提」や「仮定」のような出発点を用意して初めてスタートを切れるものなんだろう、だから私の考えも幼稚ながら間違ってはいないんだろうし、唯物とか自然派とか「あるものがある」ヒトたちも間違ってはいないはずです。
 またネガティブに奔り始めていたので強制軌道修正。

 まあ、「ある」ってなによ? とか言葉を尽くしたところでまだ足りなさそうな疑問を真剣に考え抜いた人もいるし、「まこと正しきこと」「真実」など妄想に過ぎんのですよ、となんか私とは違う方面に驀進しちゃったヒトもいるし。着眼点次第、考え方、視点次第でどうにでも解釈できる素晴らしさ。それが哲学。
 人生指南も実用的な哲学の一端だと思うけれど、
 私はこれを「(内包するという意味も含めて)『私』を取り巻く世界の解釈の追及」として、こねくり回してます。

 ちょーたのしい。

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